シュバルツバルトな毎日

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2010年 03月 23日

勧進帳

僕は勧進帳のDVDを持っています。時々日本的なものを観たいと思ったときに観ます。とても話の内容を完全になど理解していませんが、観ていると心に入るものがあります。

今年のお正月には歌舞伎座で勧進帳を観る機会があり、とてもいい思い出になりました。せっかく観に行くのだからと、日頃DVDで観ている場面を思い出しながら、あらすじを復習して行きました。

DVDで鑑賞している限りでは、弁慶の忠義とそれに心打たれた富樫という二人が主なる構図で、義経一行を通すという富樫の苦渋の決断がこの物語の最大の見せどころという理解をもっていました。

そして今回新たに、その富樫の決断は命がけであったということも分かりました。富樫は鎌倉殿の命により義経を通さないことを責務としているにもかかわらず、山伏の一団が義経の一行であることを承知で通すのですから、これは明らかに頼朝に対する不忠であり、切腹をもってこの罪を償う、ということになりましょう。

しかし、これだけの解釈だと、いくつかの?な点が残ります。

1.弁慶の義経に対する忠義はいいけれど、それだけのことで富樫の頼朝に対する忠義が崩れるのか。これは富樫にとっては命に関わること。

2.義経の存在感の薄さは、本当にそれでいいのか。

3.弁慶は最後の幕が下りてから、飛び六法に入る前、観客に向かって一礼するが、あれは何を意味するのか。

それで、お正月の観劇の後もちょくちょく勧進帳について調べていくと、弁慶と富樫という二極構図とその影にいて存在感のうすい義経という解釈では、この勧進帳は十分に楽しだことにはならないといことがわかってきました。

この演目をより楽しもうと思うとき、江戸時代における義経の神話性というか、義経は悲劇のヒーロー故に、みんなで守らなければいけない対象であり、また守られるべき存在であったということを承知していないといけないようです。

構図的には(弁慶・義経)<=>(富樫・頼朝)ではなく、神的な義経という存在が万人の上にいて、その下で富樫も弁慶と同等に存在すると。

富樫は弁慶の忠義に感服したのではなく、神なる義経に(弁慶を通して)忠義を貫いたということ。最後、弁慶は義経を金剛杖で滅多打ちにしますが、神的存在(義経)がそのようなひどい目に遭うことは富樫にとっても耐え難いことで、まして、そういう状況に追いやったのは紛れもなく富樫自身。この段に至って、富樫の「判官殿を守らねば」という思いが、頼朝への忠義に優先したということでしょう。

「判官殿にもなき人を疑えばこそかく折檻もし給うなれ。」
この富樫の言葉が、このお芝居の最大の山場、と僕は思っています。

富樫はこの不忠に対して死をもって罪を償うことになるでしょうが、同時にそれによって永遠に義経に帰依できる。(そういう精神性の高い忠義が、江戸の庶民の心を掴んだのでしょう) 弁慶もまた、やむを得なかったとはいえ、義経に対する殴打の責任をいつかは必ず取る。そのとき神のような義経に永遠に仕えることができると。舞台では、富樫も弁慶もお互い対峙しているように見えるけれど、義経の前では、実は同じベクトルを向いていると言えましょう。そこにこのお芝居の深さ、面白さがあるのではないかと思います。

そう考えると弁慶の幕後の一礼は、観客に対してだけでなく、義経の神性に想いを馳せ、頭の下がる想いだったのではないかと思いました。

(しばらく更新を休みます)
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by furtwangen | 2010-03-23 04:50 | 黒い森の小さな町


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